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これまでのあゆみ

1970年代:創設期

 生活協同組合エスコープ大阪は、1970年に大阪のベッドタウンとして開発された堺市の泉北ニュータウンに設立されました。当時の名称は「泉北生協」です。

 当時は高度成長期の真っ只中。経済効率が優先され、国は農薬や化学肥料多用の近代農業を政策としてすすめ、一方で食品にまつわる問題や公害問題、物価高騰が社会問題となっていた時代でした。そんな時代背景のなかで、「自分たちの暮らしを守るために自ら動こう」と集まった主婦たちがいました。当時、大学生協が母体になって地域生協をつくろうという動きもあいまって生協づくりがすすめられました。
 初期のスローガンは、「より良いものをより安く」。合成の清涼飲料水や輸入果物、合成洗剤も扱っていました。そんな中、第1次オイルショックが起こります。トイレットペーパー・灯油はじめ生活物資が不足し、生協でも組合員に注文品が届けられない事態になりました。組合員は「自分たちのほしいものを直接作ってもらえる関係づくりが必要だ」と考えはじめていました。
 1973年のみかん生産者との出会いはそれを象徴します。農薬大量使用に疑問を持ったみかん農家の青年3人が、みかけの良くないみかんを持って、和歌山県下津から泉北ニュータウンに売りに来ました。市場のみかんの危険性を直接聞いたことがきっかけで、産直第1号の「みかん」が誕生しました。以来、「より良いものをより安く」ではなく「安全な物資を信頼できる生産者に生産してもらう」という路線を固めていきます。

 おりしも、この頃は、牛乳のPCB汚染※1や化学物質による環境問題、公害が社会問題となっていました。有吉佐和子さんの著書「複合汚染」が発刊されました。この本から発せられた問題提起は生活者にとってはセンセーショナルな出来事でした。
 私たちの生協は1975年に、合成洗剤・輸入果物・合成飲料の扱い中止し、「安全派路線宣言」を政策として掲げ、石けん・野菜の産直を開始します。1977年には生産者と協力して組合員による「醤油開発」を行いました。醤油開発をするだけでなく、自分たちがほしいものを生産者に作り続けてもらうには、組合員の利用結集が必要不可欠であることから、班・地区を形成して組合員組織作りをし、5品目(米・牛乳・卵・醤油・石けん)全員利用運動を繰り広げ、仲間づくりと利用結集をすすめていきました。

※1 牛乳のPCB汚染…1970年代にPCB(ポリ塩化ビフェニール)が土壌や河川を汚染し食品への残留が社会問題となり、PCB は1975年には製造・輸入が禁止となった。

 

1980年代

 当時はまだ個人配達という制度はありませんでした。班の組合員は受け取りや班の持ち回りの役割ができないという理由で脱退する組合員が続出。そこで誕生したのが25人班制度でした。名前の通り一つの班が25人位で構成され、現在もこの制度は続いています。「専任当番」と呼ばれる組合員が品物を預かったり届けたりすることによって、在宅していない人も生協の共同購入ができるあらたなしくみでした。
 
 その延長で登場したのが「ストックポイント」です。安全な生協食材を使ったお惣菜やパンがほしい、加工品がほしい、見て購入できるお店がほしい、と願う組合員が集まりました。
 その願いを実現するために、組合員が自ら運営に参加することを前提に、生協が建物や設備などの初期投資をしました。生協のあらたなビジョンとして、「地域に新しい流通をつくろう!」という方針を掲げた時期です。「ストックポイント」は地域に必要なサービスを組合員自らが担い、店舗・個人配達へと進展し、後に自らの雇用を生み出しました。各地域で展開されたストックポイント活動は、生協を地域に拡げました。
 豚肉の「一頭買い」も私たちの生協を象徴する活動です。「ごまかしのない本物のおいしい豚肉がほしい」という組合員の願いを叶えるために、「月間100頭の豚を食べる力をつけよう」と行動し、徳島の養豚家、近藤さんと出会いました。好きな部位だけではなく、豚一頭、丸ごと余すことなく食べる「一頭買い」の考え方は今も同じです。そして(株)ウインナークラブの設立です。「生産者との直接的な流通を作り出すため、自分たちの手で豚の処理・加工場を作りたい」と考え、1988年に私たちの生協と石井養豚センターが共同出資をして誕生しました。これはただ単に「安全な食品を作る」行為にとどまらず、「一人ではできないことをおおぜいの仲間が集まり、生産者とともに考え、願いを実現することができる」取り組みでした。

また、「石けん運動」を各地域で活発に行いました。生分解性が悪く毒性がある合成洗剤を含んだ家庭排水を流し続けることは、河川の水生生物や微生物を脅かすだけでなく、地球全体の生物の生態系に及ぶ問題です。

 

1990年代

 ストックポイント活動や生協の仕事を担う組合員の動きが発展して、市民事業化した「ワーカーズ・コレクティブ」が生み出されました。

 「ワーカーズ・コレクティブ」とは、雇うのでも雇われるのでもない働き方で、ワーカーズのメンバー自らが出資して「自分たちがこうあったらいいな」と思う願いのもとに、地域に必要なサービスを提供する市民事業のことです。個人配達や編集業務などの「ワーカーズ・コレクティブ」が誕生しました。

 
 1995年1月、阪神淡路大震災が起こりました。震災後、多くの役職員・組合員が現地に物資を運んだり、炊き出しなどのボランティア活動に参加しました。全国の生協の仲間が阪神間に集まり、組合員であるなしにかかわらず、現地救援活動を行いました。この時、あらためて「地域のお互い様、相互扶助のたすけあいの生協理念」を考えるきっかけとなりました。その後の生協運動としての福祉・コミュニティ活動を後押しする契機になりました。
 翌年、生協の方針として福祉活動を開始し、1996年を「福祉元年」と位置付けました。地域では「たすけあいのしくみ」をつくる模索がはじまりました。1997年に「3級ホームヘルパー養成講座」を開講、1998年からは「2級ホームヘルパー養成講座」を開講。意思ある組合員が中心になって福祉ワーカーズ・コレクティブが各地域に続々と作られていきました。
 徐々に利用者の方が増え、暮らしのなかでSOSを発信する人たちを支えるしくみができました。2000年には、新しい国の福祉制度である「介護保険制度」に生協も参入できることになり、エスコープ大阪も福祉事業を開始しました。開始1年前より、介護の現場を知る福祉ワーカーズのヘルパーの人材と、生協理事、生協職員が一緒になって「こうあったらいい福祉」を考え、「エスコープ大阪サポートセンター(略称SOS)」の事業所を立ち上げました。
 一方で、食の問題は、農薬・化学肥料、食品添加物といった問題のみならず、生物の「種の壁」を超えてしまう「遺伝子組み換え作物」が問題になりました。遺伝子操作する技術は未熟な段階であるにもかかわらず、安全性審査も行わず認可されてしまい、遺伝子操作された作物の商業栽培が始まることは、驚くべきことでした。私たちはいち早く「遺伝子組み換えはNO!」という意思表明をし、生産者とともに学習会をしながら、反対活動をすすめました。同時に遺伝子組み換えを排除していくことを決定し、食品だけではなく畜産の餌に至るまでの対策を進めました。
 環境問題においては、「環境ホルモン」問題が浮上しました。ある時期の胎児期に、ほんの微量の内分泌をかく乱する環境ホルモン物質が暴露するだけで、その後の生殖機能に多大な影響を及ぼすと警鐘がなされ、環境ホルモン農薬の排除の運動を進めました。また、ゴミの焼却時の煙からに排出される人類史上最強と言われる毒性が強い化学物質ダイオキシンの問題が深刻となりました。
 ダイオキシン大気汚染のデータをとるために、組合員が松葉を採取し、私たちの活動エリアのダイオキシン濃度の測定マップを作成しました。塩化ビニルの低温焼却時に発生するダイオキシンの危険性を知らせ、発生抑制を行政に要望しました。また、「塩化ビニルを使用したラップ」を組合員から回収して、東京のメーカーにトラックで返品しにいく活動も行いました。
 このような「遺伝子組み換え」や「環境ホルモン」の問題は、生産者や一つの生協の努力だけで解決には向かわないレベルの社会問題であったため、全国の同じ意思をもつ生協や団体が連帯することによって解決をする動きが生まれました。
 1999年には部落解放運動によって誕生した住吉生協と合併し、生協名を「エスコープ大阪」としました。この合併によって私たちがすすめてきた運動事業を、大阪市内に展開することになりました。

 

2000年代以降

 21世紀を迎え、私たちは「いのちを守り育む」運動理念を掲げ、食の自給運動をすすめ、持続可能な循環型社会をめざし、地域コミュニティづくりをすすめていくことを再確認しました。
 容器は使い捨てではなく、洗って再使用できる「リユースびん」の切り替えに着手し、生産者の協力を得てすすめました。さまざまな種類の容器の廃棄物コストや環境負荷をデータ化し、リユースびんの利用と回収を呼びかけました。
 遺伝子組み換え(GM)作物は2000年以降、栽培面積が増加し、アメリカのモンサント社などの多国籍企業が開発をすすめました。食料自給率が低く、多くを輸入に頼る日本では、すでにたくさんのGM食品を食べている現実がありましたが、GM表示が不充分であったため消費者の選択の余地がありませんでした。

 2002年には地方自治体のGMイネの開発に反対し、全国の仲間とともに署名を集めて開発を阻止したり、2009年度には「食品表示の抜本改正」を求める意見書提出を地方自治体に対して行いました。
 また、2005年から「GMナタネ自生全国調査」の取り組みを始めました。市民によるこの監視活動は毎年実施して成果を上げ、2010年の秋に名古屋で開催された生物多様性条約に関する国際会議(COP10、MOP5)に市民の意思をぶつけることができました。

 2002年、それまでの「関西圏のゆるやかな事業連帯であった関西生協連合会」の解散決定とともに、兵庫県の生協都市生活・桃山学院大学生協・エスコープ大阪が一緒になって、「生協連合会きらり」を創設しました。カタログを統一し、運動も一緒にすすめました。象徴的な運動として、低温殺菌牛乳の「紙パック容器」から「びん牛乳」への切り替え、肉用鶏種について輸入に依存せずに国内でコントロール可能な国産鶏種「はりま」の導入、同じく採卵鶏種について国内自給をすすめるために国産鶏種「もみじ」「さくら」の卵への全面切り替えがありました。

 福祉事業は充実期を迎えました。2004年には、デイサービス施設「よりあい金剛」を新築移転しました。地域の人たちが行きかう拠点となるように設計段階から福祉スタッフや組合員が関わり、こういう拠点にしたい思いを投入していきました。この建物の大黒柱である「抱きつきの樹」は、生産者の協力によって吉野の国産材が寄贈されました。

 障がい者の生活介護の在宅サービスや移動サービスのほかに、入浴サービスが可能な「デイサービス」を開設し、ピース八田西、ピース光明池が稼働し始めました。また、堺市の助成を受けて、障がい児の放課後時間の見守りをする事業を開始しました。
 2000年代に入ってからも食にまつわる偽装事件が次々と起こりました。2008年の中国産餃子毒物混入はその象徴ともいえる内容でした。あらためて食の生産・消費・流通のあり方を生産者との信頼関係のもとに強化していく必要性を感じました。

 リーマンショック以降は、経済の閉塞感から消費が落ち込む一方で、市場ではますます安価志向に拍車がかかり、価格競争が激しくなりました。「生協の消費材の価格設定は、再生産可能な、生産原価に基づいた適正価格」という理解をすすめつつ、生協に利用結集して消費責任を果たしていく重要性が増しました。

 また、バイオエタノール需要のため穀物の投機に伴う国際相場の高騰、原油高騰が暮らしを直撃しました。さらに、農業の担い手が高齢化をたどり、後継者不足のなかで国内農業をどう維持していくかが益々切実な問題となりました。
 

 5年先、10年先を考えた時、エスコープ大阪はどんな地域生協でありたいのかを2年間にわたって討議した結果、今まで掲げてきた運動方針を全国連帯で強化し、引き続き、関西圏で「食の自給・持続可能な循環型社会を目指した運動」を拡げていくため、2010年6月、「生活クラブ連合会」に加入を総代会で決議し、加入しました。



 

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